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    多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかし、これはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。しかし、「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。「何のために」生活するかと問われたら、どう答えるだろう。こういう基本的なところで大間違いをしているから、小中学校で仕事体験をさせようといったバカバカしい教育になる。
 生活の必要のない年齢には、生活に必要のないことを学ぶ必要があるのだ。それはこの年齢、このわずかな期間にだけ許された、きわめて貴重な時間なのだ。生活に必要のないことは、人生に必要なことだ。すなわち、人生とは何かを考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。
 「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのもの、これを問う問いである。「生きている」、すなわち「存在する」とは、どういうことなのか。
    この問いの不思議に気がつけば、どの教科も、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。国語においては言葉、算数においては数と図形、理科においては物質と生命、社会においては人倫、どれもこの存在と宇宙の不思議を知ろうとするものだと知るはずだ。人間精神の普遍的な営みとして、自分と無縁なものはひとつもない。どれも自分の人生の役に立つ学びだと知るはずなのだ。


作者
弈凋晨弈凋晨

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